宗教でもなく文学でもなく科学でもなく
そのインチキ性が満天下に明らかにされ、すでに教育界からは駆逐されたのではと思っていた「水伝」であるが、なんとよりによって校長会の研修という場で江本某が講演を行ない、何千冊(ほんとか?)という本を売ったという。
『教育現場に水のメッセージを』
ゾンビのようなシロモノだ。
『教育現場に水のメッセージを』
ゾンビのようなシロモノだ。
で、またあらためて「疑似科学」周辺のことに思いが行く。
「疑似科学」の「疑似」科学たる所以は、「科学」のフリをするところにある、わけだ。水伝だったらインチキ実験の写真を、あたかも何かの「証拠」のようにさし出す。「血液型」だったら、全然統計的意味のない「実験」(子ども数人とか)で行動の違いを描き出して見せたり(もちろんそれ自体やらせがあるかもしれないし、それらしく編集してるだけかもしれないし等々)。そして、「水の結晶」とか「血液型」とか、何となくカガクっぽいアイテムが使われるのも特徴である。
これが何らかの宗教、信仰であれば、そのような「証明らしきもの」は必要ない。宗教のキモは「信じること」であって、「確かめること」ではない。確かめなくても、証明されなくても、その言説に人が「真理」を見いだすからこそ、宗教は宗教として成立している。「水伝」は「道徳」らしきものを吹聴するが、まったく思想的な深みがなく、そのような意味での宗教的真理に到達するようなものではないから、「信じさせる」ために「証明らしきもの」を必要とする。
もちろん水伝は科学ではない。科学のキモは「信じること」ではなく「確かめること」である。そのために、確認された再現可能な事実を基盤として、論理実証的に考察を進めていく。その途上で、いったん採用された仮説が破棄されることもあるが、それはそのような論理の手続きが無効であることを示すのではなく、むしろ有効で信頼できるということを示す。水伝の論理は、無理な飛躍だらけであり、それを力技で納得させるために、「実験もどき」の「証明らしきもの」を必要とする。
そしてもちろん水伝は(「ファンタジーです」とか言っているようだが)文学ではない。文学には「信じること」も「確かめること」も必要ではなく、作者の創造した世界に遊ぶことができればよい。しかしもちろん、他人を遊ばせるような世界を言葉の力で紡ぎ出すのは、並大抵のことではない。水伝は完結した世界を作り出してなどおらず、ただ人を驚かせるようなエピソードを(あたかも事実であるかのごとく)羅列しているだけだ。
結局水伝は「商売」なのだろうけれども、こういうふうにその構造を考えると、けっこういろいろなことを考えさせられる。科学の歪曲とか、いんちき宗教とか、「ことばの力」とは何か、とか。
少し、文学的というのか、「ことば」方面からの批判も読んでみたいところだ。
「疑似科学」の「疑似」科学たる所以は、「科学」のフリをするところにある、わけだ。水伝だったらインチキ実験の写真を、あたかも何かの「証拠」のようにさし出す。「血液型」だったら、全然統計的意味のない「実験」(子ども数人とか)で行動の違いを描き出して見せたり(もちろんそれ自体やらせがあるかもしれないし、それらしく編集してるだけかもしれないし等々)。そして、「水の結晶」とか「血液型」とか、何となくカガクっぽいアイテムが使われるのも特徴である。
これが何らかの宗教、信仰であれば、そのような「証明らしきもの」は必要ない。宗教のキモは「信じること」であって、「確かめること」ではない。確かめなくても、証明されなくても、その言説に人が「真理」を見いだすからこそ、宗教は宗教として成立している。「水伝」は「道徳」らしきものを吹聴するが、まったく思想的な深みがなく、そのような意味での宗教的真理に到達するようなものではないから、「信じさせる」ために「証明らしきもの」を必要とする。
もちろん水伝は科学ではない。科学のキモは「信じること」ではなく「確かめること」である。そのために、確認された再現可能な事実を基盤として、論理実証的に考察を進めていく。その途上で、いったん採用された仮説が破棄されることもあるが、それはそのような論理の手続きが無効であることを示すのではなく、むしろ有効で信頼できるということを示す。水伝の論理は、無理な飛躍だらけであり、それを力技で納得させるために、「実験もどき」の「証明らしきもの」を必要とする。
そしてもちろん水伝は(「ファンタジーです」とか言っているようだが)文学ではない。文学には「信じること」も「確かめること」も必要ではなく、作者の創造した世界に遊ぶことができればよい。しかしもちろん、他人を遊ばせるような世界を言葉の力で紡ぎ出すのは、並大抵のことではない。水伝は完結した世界を作り出してなどおらず、ただ人を驚かせるようなエピソードを(あたかも事実であるかのごとく)羅列しているだけだ。
結局水伝は「商売」なのだろうけれども、こういうふうにその構造を考えると、けっこういろいろなことを考えさせられる。科学の歪曲とか、いんちき宗教とか、「ことばの力」とは何か、とか。
少し、文学的というのか、「ことば」方面からの批判も読んでみたいところだ。



